金谷(かなや)城

2015年12月14日撮影


◆別名:

挙母城 ・ 衣城

 

◆所在:

豊田市金谷町

 

◆交通:

 

◆歴史:

鎌倉時代から中条氏の居館として存在していたが、延慶2年(1309年)に中条景長の手によって軍事目的の城館として本格的に築かれた城。

 

中条氏は小野篁の子孫である小野孝泰が武蔵の国横山郷に土着し、孝泰の息子が横山義孝を名乗った事が始まりとされ、義孝の孫である成任は埼玉郡成田を所領として成田大夫を称し、一族は源義朝、頼朝父子に仕えて側近として活躍して、家永の代に本姓の藤原氏を称して中条氏を名乗り、承久の乱の際は大江広元と共に鎌倉の留守居役を務めた功により尾張守護と高橋荘(この当時挙母は尾張の一部だった)の地頭職を得る事になった。

 

家永の子孫である景長は延慶二年(1309年)に三河国の代官となり挙母へ赴任し、代々支配してきた高橋荘に軍事用の居城を築いたと言われ、これが現在の金谷城である。

景長は矢作合戦で新田義貞と戦い負傷。弟の秀長に家督を譲り、秀長は足利幕府で重きをなした後、出家して伊保古城に隠棲する事になる。

室町時代に所領を召し上げられ、三河守護は東条氏、尾張守護は斯波氏へと支配権が移って行ったが、高橋荘は子孫へ戻され、挙母地区は中条氏の支配が続いていった。

 

室町幕府が崩壊の兆しを見せる中、安祥城主である松平親忠との争いが激しさを増し、伊保古城の三宅氏、寺部城の鈴木氏、八草城の那須氏、上野城の阿部氏らを率いて明応2年(1493年)に井野田の地で松平郡と戦うも敗北を喫する。

 

これにより中条氏の勢力は衰退の道をたどり、駿河の今川氏の侵攻を受けた後、永禄元年(1558年)に岡崎城の松平元康に攻められて降伏。永禄4年(1562年)には織田信長の侵攻に耐え切れず、一戦もせずに金谷城を明け渡して配下の森豊後守の居城である森城へ逃げ込んだ。

これによって中条氏の長年にわたる挙母地区支配は終わりを告げる事になった。

 

なお、江戸時代に内藤氏によって七州城が新たに築かれ、挙母城と呼ばれるまでは、挙母城は金谷城の事を指していた。

 

◆現在:

勝手神社の境内に城址碑が残されている。


縁起には中条氏の鎮守として勝手神社が建立されたと記載されている。