2015年4月27日撮影
◆所在:
みよし市福谷町杁の奥
◆交通:
◆歴史:
室町時代に糟谷宗則と言う人物が築いた城と言われているが、詳細は不明。
その後、豪族の原田氏重が城を支配していたが、天文24年(1555年)には徳川四天王の一人である酒井忠次が城主となった。
この時期は、織田信秀が死去した後、跡目争いを行う織田家の隙を伺うため、今川から派遣されてきたと考えられる。
翌年の弘治2年(1556年)1月、上社城の柴田勝家が攻め寄せてくるが、酒井忠次と原田氏重らは協力してよく守り、大久保忠勝(大久保忠世の叔父にあたる蟹江七本槍の一人)らの援軍もあり、勝家軍を撃退した。
同年5月、織田信長の義父である美濃の斉藤道三が討ち死にを遂げ、これを機に、信長と弟の織田信勝(信行)の家督争いが勃発。6月には稲生の戦いが起こり、福谷城は一時的な平和が訪れたようである。
桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にを遂げた後、三河一向一揆や小牧長久手の戦いなどでも福谷城は出てこないため、織田と松平の間で清洲同盟が結ばれた頃に廃城になったと思われる。
◆現在:
城址公園となっており、主郭には土塁が残されている。
二郭などは宅地化され、土塁の上に民家が立っている。
正面の林が城跡。
麓にある福谷寺の脇道が登城口だったと言われている。
主郭下にある民家の場所が、かつての虎口だったと言われている。
二郭下の切岸と思われる箇所。
数年先には宅地化されるかもしれない。
主郭(写真左)と二郭(写真右)の間は現在道路になっているが、当時の堀切の跡である。
主郭に残されている土塁