寺部(てらべ)城


◆別名:

 

◆所在:

豊田市寺部町

 

◆交通:

 

◆歴史:

三河鈴木氏の支族の一つである寺部鈴木家の本拠地。

先祖をたどっていくと、熊野国人領主である穂積氏にたどり着き、戦国時代に鉄砲で有名となった雑賀孫市と同族となる。

 

三河鈴木氏の祖は鈴木善阿弥(重善)で、兄の一族は源義経に従って奥州で討ち死にを遂げるが、重善は病のため三河に留まり矢並の鈴木善阿弥屋敷を本拠として土着。金谷城主の中条氏の被官として賀茂郡一帯に勢力を拡大する。

 

室町末期には足助鈴木氏、則定鈴木氏、酒呑鈴木氏、寺部鈴木氏の各氏族に分かれて行き、織田、松平、今川の争いの中で集合離散を繰り返しながら徳川幕府の中で旗本として家名を残していくことになる。

 

看板によると、寺部城は文明年間(1469年~1487年)に鈴木重時によって築かれたと言われており、寺部鈴木氏の本拠となる。

 

天文2年(1533年)鈴木重教は岩津城外で能見松平家の祖である松平重吉らと戦いを繰り広げた後、松平家と共に今川家に帰順するが、鈴木日向守重辰(補足1)の時に今川家から離反。これに対し、今川義元は松平元康(後の徳川家康)の初陣として寺部城の討伐を命ずるが、城を落とす事はできずに城下を焼くに留め、周囲の広瀬城梅坪城伊保城金谷城などを攻撃して引き上げた。

 

永禄9年(1566年)に織田信長の配下である佐久間信盛によって落城、徳川幕府が開かれた後の慶長15年(1618年)に渡辺守綱が尾張藩家老として1万4千石で入封し、寺部城跡に陣屋を構えて幕末まで存続した。

 

補足1

鈴木日向守重辰は武田信玄の軍師として有名な山本勘助の若かりし頃の兵法の師匠であったといわれている。

 

◆現在:

城址公園として整備保存されている他、書院が又日亭として七州城の隅櫓北側に移築されており、陣屋時代の城門は安城市の誓願寺(姫城)に移築現存している。


城址公園内に建物は無いが、礎石はそのまま残されており、当時を偲ぶ事ができる。


本丸に残された井戸の跡。

石で塞がれているため、中を覗くことはできなかったが、埋められている訳ではなさそうなので、現在も水があると思われる。


二の丸から東を向いて撮影。

写真右側にある段差の上が本丸。

正面には城跡碑が建てられている。


西側の土塁は鈴木氏時代の物と言われている。

写真では判りにくいが、林の奥が一段高くなっており、南北に繋がっている。


七州城に移築された又日亭。

寺部陣屋が廃された時、市内の寺院へ移築されたが、七州城に隅櫓が再建されると同時に又日亭も再移築された。